今年の自由時間アルバム
9月23日 広島県呉市で開催された「海軍墓地合同慰霊祭」で。
この日は、普段静かな呉海軍墓地(現:長迫公園)の慰霊碑にそれぞれの戦友会の方々が集まり、半旗を掲揚してとても賑やかになる。↓写真は、我が「軍艦鈴谷の碑」の階段を登る私の後ろ姿が・・・戦友会の方々は、みなさん高齢になられて、年々参加者が減少している。鈴谷の会長さん(90歳)からは、自身の凄まじい生還の物語、そして戦友との別れの物語を聴く貴重な体験ができた。慰霊碑を建立する資金は、生還した人達だけで集め、遺族からの寄付金は全員に返却された。遺族から頂戴するわけにはいかない、我々生還した者が亡き戦友に捧げるもの、という。
「命のある限りお世話をさせていただきます」
とは、鈴谷の会長さんが、訪問者ノートに記帳された言葉。

同慰霊祭での式典の様子。海上自衛隊から儀仗隊が出て礼砲を打つ。写真は、国旗軍艦旗掲揚のシーン。

ちゃんとした模様は↓のページでご覧ください。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kurekbk/
10月7日 私が参加できずに後悔した和歌山の護国神社での慰霊祭。歩兵230聯隊関西戦友会の会長(95歳)と宮司さん二人だけで開催。二人だけの慰霊祭だが、内容は前述の海軍墓地の合同慰霊祭と同じ。要するに、自分と英霊との対話であって規模の大きさとは無関係であることを思い知らされた。この会長さんも「命のある限り、自分一人になっても続ける」とおっしゃっていた。上の写真は、会長さんが私に以前送ってきてくださった慰霊碑の写真。写真が小さいので、これだけ大きくしました。びっくり!

11月のある晴れた日。紅葉の鴨川を出雲路橋の上から北を見る。ここの風景が好き。四季折々、こんなに表情を楽しめるなんて。。。河川敷などは現代的になってしまっているけど、基本的な山並みや川の流れは千年の昔からこんな風だったんだろうなぁ・・

同じく、出雲路橋の上から南を向いて見る。お盆の風物詩、大文字の送り火で有名な大文字山が目の前。この前、この橋の上を歩いていたら、目の前をユリカモメが、白鷺が、鴨が、トビが飛んでいる。凄く近いので、羽根の細かいところまで見えるくらい。ユリカモメとは目があった!そこに、至近距離でトビが通過したかと思ったら、カラスがトビに襲いかかった!「え!逆でしょ・・」と思っていたら、カラスが必死にトビを威嚇し続けている。きっと、近くに「七つの子」がいる巣があったんだろうなぁ。。。

慰霊祭の心
私は、以前からこの日は仕事の都合で行けないことは、関西戦友会の会長N氏にお伝えしていたとはいえ、後日、N氏から届いたご報告に何故か、涙が止まらなかった。
N氏は、淡々としておられるが、その胸の奥にある傷は深く永遠に癒えないことを今更ながらに感じた。これは、先日、津村別院のコンサートに広島から来てくださった重巡洋艦「鈴谷の会」の会長K氏(90歳)からも感じた。今年は幸いにも都合がつき、秋分の日に開催された呉海軍墓地での合同慰霊祭には出席できた。2000人の参加だったそうだ。
歩兵230聯隊の慰霊祭も、呉の海軍墓地と同じように式次第がちゃんと作られて、宮司による祝詞奉上、祭文奉上、軍歌斉唱など、正式に粛々と慰霊祭は執り行われた。N氏からの報告に
「宮司 1名、戦友 1名、参列者3名」
とあった。戦友とはN氏自身のことで、参列者とは足が不自由になったN氏のために護国神社まで同行したN氏のご長男夫妻とN氏のお孫さんのこと。写真も同封されていた。私が「感謝」と記して届けた京都の和菓子も並べて奉納してくださっていた。
たった一人の慰霊祭。
「亡き人を弔う」というこは、どういことか、改めて教えられた。
心にグサっと突き刺さるっていうけど、こういう感じなんだ。
私や私の家族が行っていたなら、「遺族 1家族」と書き加えられたというものだ。仕方なかったとはいえ、悔やまれた。
N氏は、95歳。どうか、来年もお達者でこの日を迎えてほしい。10月に「鈴谷」の命日が終わり、今日、歩兵230聯隊の大叔父がガダルカナルで戦死した日を前に改めて、今ご存命の戦友のみなさんのご健勝を願う気持ちでいっぱいだ。
9月の報告
しかも、これで記入は4回目!
失敗ばかりして、何度アップしたことか・・トホホ

〈1〉9月初旬。
関東公演の合間を縫って、ミクシィ仲間が教えてくれた靖国神社にある偕行文庫を訪問し、お借りしたきた資料3冊。その中の1冊(元歩兵230聯隊の方の手記)に、陸軍だった大叔父の名前を発見!所属中隊までわかり、戦死二日前まで著者と同じところに居たことも判明。なので、その手記のこの日までは、著者が見聞きし、体験したことと同じことを大叔父も体験していたのだと思うと感慨はひとしお!親しく付き合っていた中の一人に大叔父がいたらしく、だいたいの内容は「そこで別れた者達とは、その後相まみえることはなかった。麻場伍長もその一人。彼は、その後ついに密林に鬼骨をさらしてしまった」というもの。
まさか、最初にお借りした中に名前を見つけようとは・・・文字を見た瞬間、鳥肌がたった。そして、涙が出てきた。とっくの昔に亡くなっているというのに、読んでいる間はタイムスリップしてその物語の中に入り込んでいるので、まるで生きている本人に出会ったかのような感じでした。「おじちゃん、み〜〜つけた!」って。改めておかえりなさい。
それにしても、大量にある資料の中から一発で的中させた文庫のN氏にブラボー!というか、心より感謝m(_ _)m
(2)9月下旬
広島県呉市にある海軍墓地での合同慰霊祭に家族で参加。海軍だった大叔父縁の「鈴谷の碑」で、軍艦旗掲揚のお手伝いもさせてもらって感激。オリジナルの鈴谷Tシャツは、この日、海軍墓地で3名が着用して目立っていた。私と、ネットで海軍のお世話になった方々2名が鈴谷の会青年部のように応援してくださった。「鈴谷の会」会長さん(90歳)から、貴重な体験談を聞かせていただけた。佐久間艇長の記念塔がある鯛の宮神社をお参りしたときは、115段の石段を一息で登られた会長!凄いの一言。しかも、息もあがっていない。アップアップしていたの私の方。いや、参りましたm(_ _)m広島は車で6時間以上の距離、遠かったけど、行ってよかった!
(3)9月末日
歩兵230聯隊関西戦友会の会長さん(95歳)のご紹介で、230聯隊の一員としてガダルカナル島の戦闘に参加され九死に一生を得て帰還されたM氏(89歳)にお目にかかり、直に体験談をお聞きすることができた。大叔父とは違う大隊だったため面識はなかったが、同じ聯隊で、同じ日にガダルカナル島に上陸された。それだけで、私にとっては大叔父から話を聞いているかのようで有り難かった。(1)の手記も、M氏の手記やお話、戦友会の会長さんのお話、すべてに共通する苦戦の様子に、実戦に参加された方々へ改めて頭が下がる思いがした。私だったら、とっくに「生きる」という作業を諦めていたかも・・・私のために長時間お話してくださり、古いアルバムも見せてくださった。
私の「二人の大叔父の青春探し」に袖触れあうも何かの縁、とばかりに関わってくださった方々には、感謝の気持ちでいっぱい。
ネット上の出会い頭の事故のように出会ってしまってずっとサポートしてくださっている呉のM女史・Mネコ氏・Sちゃん。さん・さくらさん・姫野さん、F氏、そして飛び込んできた私に3時間も時間を裂き現在もサポートし続けてくださっている偕行文庫のN氏、数々の試練を乗り越えられた実戦体験者の方々、みなさんが私の気持ちに優しく・親切・丁寧に温かい愛情溢れる対応をしてくださり、なんと私は幸せものなのでしょう。心からありがとうございます。m(_ _)m
気持ちはいっぱいあるのですが、表現力が乏しいために伝えきれず、ただ、ダラダラ長くなってしまいました。まずは、途中経過のご報告ということで。
和歌山の護国神社での慰霊祭 その2
事務所兼お住いの玄関は、ガラス張りになっていて中からご長男さんが京都ナンバーの車を見つけてすぐに迎えに出てきてくださり、そのまま駐車位置も誘導してくださいました。そして、ガラス戸の向こうには、95歳のNさんが既にスタンバイ。
鈴谷の会長のKさんも、約束の時間より早く着いたというのにすでに、スタンバイ済みの状態で待っておられた。いずれもさすが、、と頭が下がる思いでした。
Nさんは、香港で補充として230聯隊に配属されたとか。それまでは関西出身者の多い部隊だったそうです。が、香港攻略は、開戦すぐのことなので、それ以後は大叔父と同じ動きだったので、まるで、大叔父に会ったかのような気分でした。が、大きく違ったのは、ガダルカナルには運命か、彼は行かなかった。どの部隊も留守番兵という何人かを残して行くらしく、Nさんはガダルカナルには行かない方に残ったとか。だから、聯隊の10%しか生還しなかった仲間を迎え入れる時の変わり果てた皮と骨だけの幽霊のようになった戦友を見て、本当に哀れだったと。スマトラまでは、勝ち戦だから良かったが、その後が大変だった、と言われ、その勝ち戦のお手柄話や武勇伝はおっしゃらない。
ガダルカナルから生還した仲間を迎え、そのあと、Nさん自身も岐阜の部隊を助けるために出動命令が。その出発のとき、勲章などをつけたおエラさん方が、派手に見送るので何かいつもと様子が違うなって思ったら、後でわかったことだが「玉砕してこい」ということだったらしい。
お腹はすくし、トカゲでも何でも食べようと手を出すけど、トカゲをつかむ握力もなくなるほど、へとへとに。600名以上で出た部隊の500名ほど亡くなり、100人ほどが何故か生き残った。そして、脱出の迎えの駆逐艦に乗り込むため海に向かい移動。大発(上陸用大型発動機艇)に亡霊のようになった身体を海につけながら乗り込もうとしている後ろから、杖をついたどこかの部隊の兵隊、負傷してやっと立っているだけの兵隊の「俺も連れて帰ってくれ」と悲壮に叫ぶ、しかし弱々しい声が今も耳残るとおっしゃってました。「すまん、自分自身の身体をささえるだけで精一杯なんだ。すまん、すまんな」と思いながら、やっとの思いで大発に乗り込んでほっとしたのも束の間。そのあと、迎えの駆逐艦から縄ばしごが降ろされ、海軍さんは「早く昇れ」と手をひっぱり、陸軍さんも「早くあがれ」と足を引っ張る。(実は、3メートルの波に揺られ、押し上げているつもりが、引っ張る結果に・・・)体力が落ちているので、その縄ばしごもあがれない。そのうえ、3メートルの高低差がある波。ここで私にとっては一番ショックなお話。
「うしろで、キャーキャー聞こえるな、と思ったら、大揺れする艦と艇の間に挟まれたり、海に落ちたりして何人も死んだ」
やっとの思いでここまで生還して、味方の艦まで辿りついたというのに。話には聞いても、実際、その現場にいた人のリアル証言だから、余計にショック。
駆逐艦に乗船したあと、にぎりめしを一つもらった。何と有り難かったことか。この一握りの米が無くてどんなに苦労したか。
会長さんは、珊瑚海海戦にも結果的に巻き込まれたこともあったらしい。何せ、とてもしっかりされているけれど、お話が前後すると聞いているこちらが無知なため、流れに落ちてしまいます。が、95歳ということを考えるとあまり、ひつこく聞き直すのもお疲れになってもいけないと思って、必死に聞いていました。が、やっぱり、一部、落ちてしまった。
なので、部隊がガダルカナルに行く前の話だと思うのですが、やっと駆逐艦に助けられたとき、これで助かったと思ったら海戦が始まってしまって、海軍さんから「今は、陸軍さんには用事が無いから下に降りていてください」って言われて、艦の底で、息をのみながら「いよいよ、ここでダメかも・・」なんて覚悟していたら、この時は海軍さんが勝ってくれたから生還できた、とニコッ。
そして、歩兵230聯隊戦友会発行のアルバムと実際にガダルカナルに行って生還された関西の方の手記を家でゆっくり見て返却してください、と貴重なものを貸してくださった。帰還後、約10年はマラリアで苦しまれたそうです。
約1時間たっぷりお話くださり、さぞ、お疲れになったと思いねぎらったら、ご長男さんが「ぜんぜん大丈夫ですよ」と今のお元気さを笑顔で言っておられました。そういえば、今年90歳のKさんとも1時間立ち話した・・・。いつまでも元気でいて欲しい
Nさんとの出会いのオープニングの開口一番からエンディングの締めまでこの言葉だった。
「私は、英霊に今日まで生かされてきた、と思っています。まだまだ生きて、できるだけ彼らの話を伝えたいです。私は英霊のお陰で生きているんです。」
そして、酷暑の炎天下、玄関先まで出て、見送ってくださっていました。少なくとも運転している私のバックミラーの中に見えなくなるまで・・・
追記1:急いで乱れ打ちしたので、日本語が妙な所やわかりづらいなど、ご勘弁を。
追記2:この回で書き漏れは、また後日。
和歌山の護国神社での慰霊祭
歩兵230聯隊の「魂」の碑に刻まれている行軍歴には、呉海軍墓地の「鈴谷の碑」に刻まれている行動表と重なる部分があり、我が家の軌跡を見る思いがしました。そして、となりにある碑が何と「ああ、予科練」の碑!桜に錨、それに翼が広がったマークが石に刻まれてました。慰霊祭の神官さんの中に、ここの予科練出身者の宮司さん(特殊潜航艇「海龍」の訓練中に山口県で終戦を迎えたそうです。)がいらっしゃって親父と話がはずんでいました。
さて、歩兵230聯隊関西戦友会の会長さんはデイケアサービスを受ける都合で慰霊祭に参加できず、私のことを神社に伝えておられたようで、前の方へ着席を促されました。私たち親娘は、初めてだしビジターのつもりで外野席で見守るだけの参加のつもりだったので、おとなしく隅っこに座ったのですが、各戦友会の代表の玉串奉納が順番に案内されたとき「歩兵230聯隊」は私達が立たなければ誰もいないということに気づき、前の遺族席へと促されたわけがやっと理解できた脳天気親娘。謹んで代表代行させていただきました。だいたい7割の戦友会は名前を呼んでも、出る方はおられませんでした。高齢化がすすみ、後を引き受ける人が少ない現実を見たようでした。
歩兵230聯隊は、本拠地は静岡県など東海地区出身者が多く、静岡の護国神社に行けば、もう少し詳しく大叔父のことがわかるような気がして、気がはやるのですが、和歌山の戦友会の方々が静岡へも出向かれ、碑の中には、静岡出身者の名簿も納められているということでした。なのに、なぜか大叔父の名前が見つからない・・・ん〜〜!?!?!靖国からの情報にはしっかり、230聯隊とあるので間違いないはずなのですが。。。
地元の議員さん方も参加されていましたが、一番声がしっかり腹から出て、内容を気合いとともに伝えたスピーチは80歳はとっくに越えられたと思う、元軍人さんのスピーチでした。
「終戦のころ、日露戦争の話を出された時『そんな大昔の話をするのは、止めてくれ』なんて言っていたのに、思い返すと昭和20年現在で日露戦争は40年昔の話。あのとき、あんなことを言った私が今、62年前の話をしようとしています」なんてしゃれっ気充分な中に、平和を祈念し国難に殉じられた仲間を慰霊する気持ち溢れた温かい心のこもったものでした。
宮司さんが祝詞っていうんでしょうか、、慰霊の言葉を独特の調子で語られる中に「南方の海で、また北の極寒の地で…」と世界中にまだ散らばっている英霊の遺骨に向けて語りかけて労をねぎらいながらの慰霊の言葉に涙が出ました。
右翼とおぼしき宣伝カーの音がちょうど慰霊祭が始まった10時頃、護国神社の前で大音量を出していて、しかも、大量発生の蝉もかなり大音量だったので、司会進行の神官さんの声がほとんど飛ばされてしまっていて私の耳にはたいへん聞き取りづらかったのですが、何故か私よりご高齢の方々はしっかり司会進行に沿って動いておられたのに驚愕!何故に聞こえる?
慰霊祭は午前中に終わり、昼食後、いよいよ、会長さん宅へ・・。この続きは、また。





