ひろすけ童話集
物心つく頃に、「ひろすけ童話集」を読むべき。
いや、子供のそばにいる大人が「ひろすけ」に触れる機会を与えるべきだと。
私が子供の頃は全集で出ていて、姉のおさがりで読書嫌いの私ですら
ひらがなが読めるようになった頃、読んだ。子供なりの感性で感じた。
大人になって、振り返ると更に深い意味が込められていたことに気づく。
例えば「泣いた赤おに」
最後に、なぜ赤鬼が泣いたのか。ただ、お友達の青鬼さんが自分から
離れていって寂しいから・・・くらいしかわからなかった。
でも、大人になって、赤鬼の涙が、どんなに深い意味を持つのか。
赤鬼の胸がどんなにえぐられるように傷んで泣いたのか。
青鬼の心中はいかに。。。
とても深い意味が込められている。
大人になって社会に出たら、自分が赤鬼になる場合もあるだろう、また
青鬼になる場合もあるだろう、また、そういう関係を側で目撃し関わる
こともあるだそう。そうした時に、人の心がわかる人間になっている
ことが大事なこと。それは、子供の頃に「ひろすけ」などで触れて
すでに疑似体験している者の方が、より深く人の痛みをわかる人間に
成長しているだろうこと。
なのに、今、書店にいって子供書籍のコーナーを探しても、「ひろすけ」
の一部分しか出ていない。
「龍の目の涙」「泣いた赤おに」「むく鳥の夢」・・・
そういう私だって、子供の頃に読んだっきりの全集すべてを覚えている
わけではないけど。でも、そこを通過したかしないかは、思春期を迎えて
多感になり傷つきやすい年齢なったとき、そこを乗り越える力がついて
いるかどうかに大きく作用すると感じる今日このごろ。
ひろすけ童話には、日本人として、人として大事な心が入っていると思う。
http://www.takahata.or.jp/user/hirosuke/
太陽の人 越智順子 さん
パワフルジャズ歌手「越智順子」さんの訃報が携帯メールに飛び込んできた。
ロス・マレーボスのゲスト歌手として、大阪のロイヤルホースほか、関東ツアーなど
で何度も、何度も共演させていただき、そのたびに、越智さんの明るくて人を魅了する
パワーをいっぱいもらってきた私は、とても心が痛かった。普段、ぴったり一緒にいる
わけではないけれど、その人が元気に活動しているというだけで、元気をもらえるような、
そんな越智さんだった。
昨年の秋、「癌で緊急入院することになったので…」と出演の予定変更のための
お電話をいただき、それが彼女の生の声を聞いた最後になった。
ロス・マレーボスのボスである、ジャズピアニストの竹下清志さんが越智さんのことを
「一緒にいるだけで、人を幸せな気分にさせてくれる人」
って表現してたけど、本当にその通りの方。
昨年の3月には、「にっぽん丸クルーズ」でアストロリコでもゲストで出演してもらい、
大好評のステージ、そして、一緒にクルーズしていてとても楽しい想い出を作ってくれた。
(2007年3月の当ブログ日記に、そのときのことがアップしてあります)
あまりに姉御肌のオーラが出ていて、それを通り過ぎて、中途半端な発音で「おちさん」と呼んだら
「なにっ?おじさん
?」なんて、返してきて、大笑いしたり。
豪快、そのもの。でもその反面、とっても周囲に配慮が行き届き、細やかな優しさが
ある女性だった。そして、とっても美しい人だった。
ピアソラ作曲の「ブエノスアイレスのマリア」を歌うとき、越智さんのトークの決めセリフ
「私をだれやとおもてんの(▼▼メ)… (小声で)越智順子ですけど

私はブエノスアイレスのマリアよって言う歌です。」
京龍館のライブでは、越智さんのことを思い出すとお仕事にならなくなるので、しばし
忘れるようにしていたけど、「天使へのイントロダクション」は彼女のことを思いながら
演奏した。
昨夜、お通夜に行って彼女にお別れしてきた。
越智さんは本当にたくさんの人を幸せにしたんだなぁって思った。
みんな越智さんに「ありがとう」「ありがと」と別れを告げるときに言っていた。
お顔を拝見することをずいぶん考えたけど、会わないで後悔するよりは、ちゃんとご挨拶
しようと決めて面会したら、何と綺麗で安らかな表情だったこと。
するべきことは全部した、と満足げな表情。でも、口元が動いた!?って思った瞬間も。
越智さんへ
癌との闘いはしんどかったね、
つらかったね、
よくがんばったよね、
もう、がんばらなくていいからね、
お疲れさま、
ゆっくり休んでね、
幸せな気持ちをいっぱいくれて、ありがとう
http://www.junko-box.com/html/home/index.htm
7月18日〜20日 アストロリコ四重奏(関東公演)
7月17日(木)マキシムのリハーサルも兼ねて上京。東京駅のホームに降り立った途端に、思ったこと。涼しい〜〜〜!!
大げさな表現かもしれないけど、高温サウナ状態の京都から来た私には、涼しいっと
感じました。
7月18日(金)さて、銀座マキシム・ド・パリの公演は、長年親しくしていただいている大浦みずきさん
の優しいサポートのお陰で、マキシムのスタッフの方々もとてもアストロリコに好意的で
和やかな雰囲気で演奏をさせていただけました。お客様のフルコースとはメニューは
違いますが、マキシムの美味しいお料理もたっぷりと楽しませていただき、素敵な
想い出ができました。大浦さんのヘアースタイリストさんが、ご厚意でアストロリコの
女性二人のヘアスタイルもしてくださいました。ぜったいに自分ではできないスタイル
なので、名付けて「マキシム・モード」

7月19日(土)お昼は、横浜のホテルで私的なパーティーでのゲスト演奏のため非公開。
夜は、去年もお世話になったアンデルセン文化事業部の主催で横須賀でコンサート。
横須賀といえば、記念艦「三笠」

私個人的には、三笠がいる同じ場所にいるだけでテンションが上がった日でした。
実際には、三笠公園を横目に会場へ。
アストロリコとしては、初の横須賀公演。初対面のお客様ばかりでしたが、みなさん、とても
喜んでくださってほっと一安心しました。
7月20日(日)同じくアンデルセン文化事業部主催で、アストロリコとしては初の埼玉県公演をお昼は越谷市で、
夜は浦和市で。
横須賀公演も埼玉県公演も、すべてこじんまりとした会場で、しかも生音。タンゴの臨場感を味
わっていただくには、最適な環境でした。お客様との距離も近いので、楽器の音色をダイレクトに
楽しんでいただけたと思います。私の関西弁トークに、みなさん、ひいてしまわれないか、、、と
アウェイな心境で挑みましたが、お客様が温かい気持ちで迎えてくださったので、本当に有り難
かったです。
人の心の温かさをステージで感じることができました。
アストロリコの関東公演にご来聴くださったお馴染みの皆様、ありがとうございましたm(_ _)m
そして、今回、初めてお目にかかったお客様も、本当に「何だかわからない人たち」のアストロリコ
の公演に勇敢にもお暑い中をお出かけくださってありがとうございました

どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げますm(_ _)m
追記:
ミクシィメイトの中には、マキシムと埼玉公演、2回も足を運んでくださった方もいて恐縮至極です。
お仕事を休んでまでご来聴くださり、感謝いたします。
また、マキシム公演には、わざわざ、このためだけに、日帰りで関西からもお出かけくださった
お客様にも会えて、何とアストロリコは幸せものなんでしょう。
心より御礼申し上げます。
7月6日「聴け、バンドネオンの調べを」神戸公演
たくさんのお客様が、ひとつになった雰囲気で、ステージにいる私達まで温かい気持ちに
させていただけた、素敵なコンサートでした。
昨年まで、会場に来てくださっていた主催の神戸ポルテニア音楽同好会会員の一人でも
あります元陸軍軍医さんの林先生が、今年の4月についに他界され、寂しくなりました。
先生の奥さまからメッセージを頂戴しました。
「主人の人生の後半はアストロリコの皆様のお陰で、大好きなタンゴを好きなだけ聴けて
とても幸せな時間を過ごさせて貰って心から感謝しております。」
こんなメッセージと共に、私達アストロリコにお礼がしたい、とのことで、第2部の冒頭では
先生と同じくお医者様である弟さんから、ステージ上で花束贈呈、という場面がありました。
林先生は、戦争中は日本兵だけでなく戦場で巻き込まれた地元の民間人に至るまで、
多くの人の命を救ってこられて、戦後もずっと地域医療に活躍されてきた方、お礼のお花を
捧げるのは私達からの方だというのに、こちらがお花を頂戴してしまいました。
林先生を偲び、ゆかりの深い「マロニエの木陰」を今は客席にはおられない先生に向けて
演奏しました。
そんな流れで、第2部は、頂戴した花束も一緒にステージにあり、ステージも会場もより
一層の連帯感の中で、なごやかで熱い、熱い コンサートになりました。
ご来聴くださった皆様、ありがとうございました。
また来年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
林寧豊軍医 と 「マロニエの木陰」
先の大戦中、中国大陸で任務に就いていた林軍医。長沙での夜戦のときのお話。
夜戦で休戦状態になった束の間の静けさのときに、そばにいた一人の兵士が突然、
「マロニエの木陰」を歌い出した。敵との距離は比較的近かったため、大きな声で
歌うと敵に距離感など知られてしまうので何度も止めるように注意をした。
夜が明けて、戦闘が開始され、林軍医の近くにも砲弾が着弾。その1発の砲弾で
7名が死亡、林軍医も片目・片耳・手足を負傷。「マロニエの木陰」を歌った兵士は
肉片と化した。負傷した軍医は、自分の手当を後回しに、片目と負傷した手足で
ほかの負傷兵の救護をしてまわった。
そのほか、色々な戦場で銃弾や砲弾が飛び交うなか、負傷兵を背負い、あるときは
這うように後退し、手当し続けた林軍医は、奇跡的に生還し、戦後も「マロニエの木陰」
を聴く度に、この出来事を思いだし涙すると語った。
林軍医に命を助けられた中には、剣豪小説家の五味康祐氏もいる。後に五味氏は
ある会誌等に林軍医とのエピソードを掲載している。また、日本兵だけでなく、戦場
で巻き込まれた、地元民間人の命もたくさん救い、林軍医に助けられた中国の人々
からは、戦後もずっと感謝の気持ちが先生に寄せられていたという。
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