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まずは、慰霊巡りの夏休み

家族との調整も何とかつき、今年は、帰国中の姪っ子のうち一人を、戦死した大叔父と
同じ部隊にいらっしゃった方々に会わせることができました。若い姪っ子にしたら、映像
と書物の中の世界の人たちですから、実際に目の前にしたときの感動と興奮は想像
以上のものでした。私も、はじめてお会いしたときは、同じでした。
大叔父達の生前に面識がなくても、同じ重巡洋艦「鈴谷」に乗っておられたり、また同じ
歩兵230聯隊に所属され戦地を同じくされたり、そんな方々にお会いできるなんて
現在の私たちにとっては、それだけで充分ラッキーな出来事だと思います。


絵文字名を入力してください呉海軍墓地参り 絵文字名を入力してください
12日の早朝、呉に向けてGO
途中、渋滞は少しだけ、、でも、やっぱり6時間はかかります。
到着後は、まずは、「てつのくじら館」を見学。入場料が無料なのに感激、展示内容を
見てまた感激。お土産を買って、これまた感激。海上自衛隊の掃海作業というものを
もっと広く、伝える必要を強く感じました。
命懸けで、他国の海の機雷まで処理を続ける平和奉仕の実績は、あまり知られていない
というよりも、報道されていないのが現実ですから。機雷処理をしてもらった他国から勲章
を授与されているというのに、母国の民はその事実を知らない・・・。
なんと、アンバランスなこと。

夕方、大叔父が運命を共にした重巡洋艦「鈴谷」の数少ない生存者であり、存命者である
「鈴谷の会」会長さん91歳と合流。会長さんを囲んでお話を聞く家族イベントは、宿の夕食後、
昔の写真や戦後の洋上慰霊祭の写真、手記などを見ながら結構な夜の時間まで続きました。
その後は、早朝からの長距離運転の疲れで、すっかり、ダウン。
昔話を初対面の姪っ子にも、しっかり聞かせることができて良かったです。

翌日は、午前中に会長と一緒に海軍墓地に行き、「鈴谷」の碑と「鈴谷」の乗組員を必死で救助
してくれた艦「沖波」の碑のお掃除。お花も供え、お線香を立てて、京都から持ってきたお菓子も
お供えして、みんなで「ありがとうございました。」と合掌。
姪っ子は、お花を入れる器を墓地公園の洗い場までもって行き、一生懸命、ピカピカになるまで
必死に磨いていましたニコッ♪


展示室にある、潜水艦内ベッド再現&体験コーナーでは、あのマイ親父が娘二人、つまり、私と姉、
それに姪っ子、合計3名を3段ベッドに入れて写真撮影を強行怒
声がデカイので、ここだけエライ騒ぎみたいになって恥ずかしいぞ~~~ 汗とか
それにしても、上下の間隔が狭い3段ベッドの出入り、メタボの私は、一瞬ひるみました。
が、無事に収納完了、撮影! そのあと、降りるのに一苦労苦笑い


星和歌山護国神社 慰霊祭星
去年の慰霊祭は、な~~にも知らないで、ふら~~っと護国神社に行ってしまったので、
なんと、服装がアロハのようなシャツでした

なんとも不謹慎なことと思い知り、今年は、それなりに黒で統一して参加しました。
今年も、私が家族と一緒に参加することを伝えると足が弱って一人では歩けない歩兵230聯隊
関西戦友会の会長さん(96歳)が、息子さんに介添えしてもらって参加されるという嬉しい出来事が!
社務所に挨拶にいくと、昨年の禰宜さんが「京都の麻場さん」と覚えてくださっていて、玉串を奉納
する際の紹介に、

「230聯隊関西戦友会会長、そして、今日はわざわざ京都からお越しの麻場利華さん」

と晴れがましく紹介してくださり、びっくりしたのと、今回はバッチリ服装を整えてきたことに、
心の中では

セ~~~フピース


本殿の慰霊祭が終わってから、会長さんと一緒に慰霊碑にもご挨拶。
慰霊碑の前につくと、私たちとさっきまで会話していた会長さんが、知らないうちに慰霊碑に
話しかけていました。

「戦友のみなさん、えらいご苦労をおかけしました。
今年も、8月15日の敗戦の日がやって来ました・・・ といってもみんな、知らんわなぁ~~」

って、ほんまに関西のノリというか、、ノリのよい口調で自然に「一人ボケとツッコミ」を聞いている
ような、なのに内容は悲哀がこもった会長さんの言葉に、みんな泣き笑いでした。
そして、私たちが、会長さんのノリの良い口調に泣き笑いしているうちに、気が付くと、その語り
かけの言葉の調子が、そのまま般若心経に変わっていて、、、
私たちは、慌てて会長の後ろで一緒に合掌していました。
96歳というのに、しっかりした般若心経の声だったので、まだまだお元気!と安心しました。
会長さん自身は、足が弱ってしまって、それが情けないとずっとおっしゃていました。
「若い頃は、首から飯盒をぶら下げたまま、交代で銃器を担いで24時間歩き続けることができた
というのに、ほんに情けない・・・」
と。
若い頃、それだけ鍛えられたから、今もこうやってお元気にしっかりされているのだと、私は
会長さんに「私だったら、会長さんのお歳までそんなにしっかりできないと思います」と言うと
介助されている息子さんもニコニコしながら、大きくうなずいていらっしゃいました。

歩兵230聯隊は静岡県護国神社に本隊があるのですが、関西戦友会さんが関西にも
慰霊碑を作っていてくださったお陰で、静岡まで行けないときでも、和歌山にあるので大変
有り難いです。
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コメント

沖波

こんにちは
暑い折、ご家族一緒の慰霊祭ご苦労様です。
戦艦「沖波」が登場して、胸に来るものがありましたので書かせていただきます。
以前利華さんが書き込みをして下さった、そして初めてネットで質問をしたと言われた下記のサイト、
http://www.b-b.ne.jp/kaigun/cgi-bin/tree/trees.cgi
守山さんも時々登場なさるメンバーでした。

この掲示板は、もう10年くらい前に設置された掲示板で、私のネットデビューの思い出の掲示板でした。この掲示板はとても活発で、海軍のことについて非常に詳しいプロ戦史家顔負けの方たちが登場して話がもりあがりました。
その中に「沖波」と言うハンドルネームを使って登場された方は、おじさんが「沖波」で戦死されていた方で、「沖波」の話になるとすぐに涙を流されるような方でした。
この中のメンバーで当時大学生だった男性は、現在海上自衛隊員として、練習艦「かしま」にのって航海訓練にでておられます。

Re:沖波

沖波は、沈没したあと何時間も漂う鈴谷の乗組員を救助してくれましたが、そのあとも米軍の攻撃を受けました。沖波に救助された鈴谷の乗組員の半数くらいは、沖波の乗組員と一緒に亡くなったそうです。
鈴谷の碑の区画内には「沖波」の小さな碑があり、鈴谷からの感謝の意が表された文字が入っています。そして、いつも一緒にお線香をあげています。私の大叔父は、沖波に救助されたメンバーではなく、おそらく、鈴谷が魚雷の誘爆で数回爆発しながら沈没した時の、最初に近い爆発のときに亡くなっているのでは、と思っています。持ち場が魚雷の辺り、らしいので・・・
先日、鈴谷の会長さんが「この沖波もついに生存者の方も他界されてどなたもいなくなってしまった」とおっしゃっていました。

お知らせ下さったHPは、私も最初に質問をしたページです。
鈴谷で戦死した大叔父の最期の様子を知りたくて・・魚雷のあたりだったのか、どうかが未確認だったので。
ハンドルネームの「沖波」さんを見て、もしかしてあの「沖波」のこと?って思っていたところです。
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