最後の慰霊祭 平成20年10月12日

去年の穏やかな秋の日。

ついにこの日を迎えてしまいました。
戦友会が高齢化し、ここ数年は96歳になる会長さんが一人で開催してきた慰霊祭。
去年は、参加できずに悔やまれた慰霊祭。今年こそ!と心に決めていたところ
ついに、「英霊には申し訳ないけど、これで最後にします」と会長さんからご案内を
受けました。

歩兵230聯隊関西戦友会 慰霊碑には「魂」 と刻まれています。
そして、慰霊碑の中には、聯隊の大半が骨をうずめたままになっているガダルカナル島
の土が納められています。

230聯隊の本隊は静岡県護国神社に祀られていて、私の大叔父はそこにいますが
静岡の戦友会は、私が気が付いたときには解散した後で間に合いませんでした。
関西戦友会がこの日まで頑張ってくれていたおかげで、私は何とか参列に間に合った
のです。この日まで、会長さん一人になっても慰霊祭を立派に続けてくださったことに
心から感謝いたします。

呉の海軍墓地でも昨年9月の合同慰霊祭を最後に「鈴谷の会」も解散。同じく、91歳の
会長さん一人で切り盛りされてきました。
海軍墓地は、有り難いことに鈴谷の会が解散しても、毎年合同慰霊祭を催してくださいます。
海上自衛隊の参列(艦長・幕僚クラスもゾクゾクと)と自衛隊のブラスが英霊や戦友にとって
なつかしく思う曲をたくさん演奏してくれて、儀仗隊による礼砲もあります。
私の頭の中で、その光景と一人ぼっちの静かな慰霊祭が交錯。
いてもたってもいられなくなり、せめて最後の慰霊祭は、、、
とにかく、陸上自衛隊に電話して相談し、手順を教えてもらいました。電話口に出た担当の方
は、とても親切でした。でも、もう時間が数日しかなく、しかも、連休の最中の慰霊祭。
お休みのところを引っ張り出される方に、申し訳なく思いながら和歌山地方協力本部の
本部長さんにFAXしました。(手紙では、もう、間に合わないくらいに迫っていたので・・)

そして、当日、有り難いことに陸上自衛隊からお二人が、休日返上で参列してくださり、
玉串奉納のときには、慰霊碑に向かって心のこもった最敬礼をしてくださいました。
その姿を見た途端、熱いものがこみ上げてきました。この碑の向こうにおられる英霊が、
この敬礼にどんなにか喜んでおられるか、、と。

式の中で、230聯隊の聯隊歌、南支派遣軍の歌を96歳の会長さんが一人で、歌われました。
一緒に歌いたくても、メロディーを知らないのが悔しい。高齢の会長さんの、吃驚仰天するほど
のしっかりした歌声に度肝を抜かれて、超感動ふるーつ☆Cultivation・ドキドキハート
この日、私はいつものタンゴではなく、心をこめて2種類の「海ゆかば」を奉納演奏させて
いただきました。
海ゆかば

まったくお節介焼きの行動でしたが、高齢の会長さんと英霊のことを思うと、じっとしていられ
なかったのです。勇気を出して本部長さんにお願いして良かったと思いました。
この機会を逃していたら、きっと、後悔したと。
そして、急なお願いにもかかわらず、本当によく来てくださったと心から感謝しています。

歩兵230聯隊慰霊祭 3名
↑は、私の大好きな1枚となりました。本物の230聯隊さんと陸上自衛隊さん。


余談:偶然にも「歩兵230聯隊の碑」のお隣は、父も所属していた「予科練」の碑。
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コメント

海ゆかば

この記事、胸がいっぱいになりコメントできませんでした。
今まで私もいろんな戦友会や慰霊祭に参列しましたが、こんな形の慰霊祭もあるのかと感無量でした。
呉の海軍墓地などでの大きな慰霊祭には、自衛隊の儀仗兵の方が来て下さったり、船での慰霊祭出発に際しては空の上からの見送りをしてくださったりしましたが、今の国防を受け持ってくださってる方たちが、個別に60年前の人たちの精神を受け継いで、また苦難の戦いをした人たちへの同じ立場としてまなざしを持っていらっしゃる証拠ですよね。
この日のヴァイオリンソロ「海ゆかば」は、その向こうに何十万という兵士の方が耳を傾けてくださったものと確信します。

利華さんがアーミージャケットをカッコよく着こなしていらっしゃった理由がわかりました(笑)
杉並でのコンサート予約しました。
楽しみにしています。

さくら さん へ

コメント、ありがとうございます。
たくさん、いろいろな場所で慰霊祭にご出席されているさくらさんから、
こんな風に感想をいただき、恐れ入ります。

満開の桜のあと、散り染め、そして、ほとんどが土にかえろうとしている頃、
若葉の中にわずかに残る、桜の花びら、一枚(ひとひら)だけになっているものや、
遅く咲いてしまって、まだ散っていないものが混じっている状態の枝を見て思いました。
ほとんどの人が、満開のときは目をやる桜ですが、葉桜になる頃は、他の花も咲き出
して目をやらなくなるけど、最後まで残っている一枚まで私は見届けようって。

もちろん、じっと観察しているわけではないですが、桜並木を通る度に、残っている一枚
を意識して見てみようということなんですけど。

杉並の公演、お運びくださるのですか!
それは、それは、嬉しいです。ありがとうございます。
頑張りますねv-220

No title

はじめまして。何度か訪問させていただいてました。
私は和歌山市出身で、和歌山県護国神社に大叔父が祀られている、原田知典と申します。

Ricaさんの英霊顕彰・慰霊のお気持ちに心を打たれました。Ricaさんの演奏はきっと英霊の魂を揺さぶったことでしょう。

原田 知典 さん へ

はじめまして!
コメントをありがとうございます。
原田さんにも、そんな風に言っていただけて、改めて演奏して良かったと思います。
実は、「慰霊祭で演奏を申し出るのは、ちょっと差し出がましいかなぁ~」
って及び腰になっていたのです。でも、密かに楽器は持っていこうっとは決めていました。
大叔父の名前がある手記を私に教えてくださった神職の方に最後の慰霊祭に行く話を
伝えたら、
「楽器は持参されますか?国家でも軍歌でも、タンゴでも、、お祭りに音楽は欠かせません。」
との言葉をいただき、背中を押していただいた感じです。当日は、遠慮なく、心をこめて演奏
することができました。
通常、屋外にはバイオリンは持ち出すことを私は極力避けているのですが、英霊の協力も
あってか、良い気候に恵まれ、楽器へのダメージもほとんどありませんでした。
和歌山県護国神社には、いくつか慰霊碑がありますよね。
その中に、原田さんの大叔父様もおいでなのですね。
そっとでも結構ですので教えていただければ、次回、和歌山県護国神社に行くとき、ぜひ、
お参りしたいです。

また、当ブログにもお運びください!

海ゆかばの経済学

利華さん
ご無沙汰いたしております。
去年の今日のブログも読み返しました。利華さんの文章を読んで、おなじく胸がいっぱいになりました。
写真は嘘がありません。
制服を着られたかたがたの表情を粛然と仰ぎ見ると、利華さんのきもちが伝わってきます。
わたしは最近昭和四年生まれと五年生まれの父と母から、国民学校の卒業歌は「海ゆかば」だったことを最近なにかの拍子に初めて聞きびっくりしてしまいました。蛍の光だとばかり思い込んでいたからです。
いくら意味がわかりづらい歌詞だったとはいえ、海に山に戦死者が倒れ伏す歌を青少年の門出に歌わせていた時代があったとは。
昨日母を連れて母のおやざとにあたる家へ行き、そこの伯母の話を色々と聞いていたら、むかしの話ではじめて母がきくようなことも出てきました。
今は亡き母の兄が海軍に入隊して戴いたお金で当時住んでいた家を買い上げたのだ、という話です。
これまで、私たちがこどものころに里帰りする母についていっていた奥八女の家が、そういうお金でまかなわれていたなんてこと、はじめて知りました。

はなしは変わりますが、「おくりびと」を母とその老姉妹を連れて見に行きました。すると楽器はとっても高価であると知りました。りかさんが戸外では弾かないと書かれているのもうなずけます。それなのにあえて捧げられた海行かば。みたまたちは、さぞうれしかったことでありましょう。
(保健医療経営大学という全国に一つしかない医療経営の大学の学長のはなしを最近無心に引用しておりますが、これまで「受益者」としての視点しかもちあわせていなかったことがよくわかります。)
それとおなじで、戦時中はもっとくっきりとした「いのちのねだん」があったのですね。

追伸:
アストロリコのコンサートの案内状をいただきまして、ありがとうございました。山陽小野田市文化会館、てことは山口にみえるのですね。だんだん近づいてきました。いつかみたい、ききたいものです。では、お元気で。

かささぎの旗 さん へ

お久しぶりです。
コメントをありがとうございます。
小さい頃から知っていて、懐かしく、馴染みがあるオウチが、そういう経緯から成り立っていたって
いうことを知ると、また心に深く刻まれる思いが増えましたね。
そのオウチ、大事にしてくださいね。当時の物価のことなど、私にはわかりませんが、防人として
一家の担い手を派遣するのだから、「引き替え」の価値にはとうてい及ばないのは重々承知では
あるけれど、家一軒分くらいの形として軍人の給料が換算されたのでしょうか。
家族にとっては、家はいらないからご本人が帰ってきて欲しかったでしょうけれど、せめてその家
が空襲などで焼けずに残ってよかったですね。

「海ゆかば」は、まったく思想とはかけ離れた次元の単純な感覚だけで、子供の頃から好きな歌です。
昔は、第二国家とも呼ばれていたらしいです。
子供の頃、慣れ親しんでいた「海ゆかば」は信時潔作曲の方で、それよりも古い「海ゆかば」
があるのです。それは、軍艦行進曲の中間部分に出てくるので今でも聞くことができます。
明治13年(1880年)東儀季芳の作曲。少し雅楽風な旋律です。これも、たまらなく好きです。
あの部分は、「君が代」の変奏と勘違いされていることが多いようです。実は、私もそうでした。

なので、慰霊祭では、両方の海ゆかばを演奏したわけです。
当時の人は、二つともご存知だったはず、と思って。

父が予科練時代にこの曲を聴いたときは、中間部分の「海ゆかば」に曲がス~っと入った
とき、感動でゾクゾクと武者震いのような感覚だったそうです。
今でも、軍艦行進曲のあの部分になると父は背筋を思わず伸ばす雰囲気でニコっとします。

信時潔は全国のたくさんの校歌も作っていて、私の母の出身校も
信時潔作曲らしく、母のプチ自慢の一つです。

それにしても、信時潔作曲の「海ゆかば」は音楽的にも素晴らしいです。
当時の日本の文化水準の高さに改めて感動します。

長くなりましたが、オルケスタ アストロリコの公演。
来年あたりは、関門海峡を越えたいです。待っててね!

追伸

父から聞いた話の中で私の記憶違いがあったので、上記の記述の一部を
訂正しました。

私も書きながら???と思ったので、あとで父に確認したら
やっぱり卒業行進のときではなかったようなので。。
軍楽隊なんて、そんな常設してあるはずないなって、思いました。
確認してから記載すべきでしたm(_ _)m

私の記憶も怪しいわぁ~~~。v-39
失礼しましたm(_ _)m

野太き寄与し

りかさん、おはよっす!
今連句三巻まいてるのですが、「かるら」って眷属の名をしらべているときに、信時潔にばったり出会ってしまいました。
これです。↓urlみてね。

かささぎの旗 さん へ

おはようございます!
いつもながら、難しい言葉ばっかりぃ~。
でも、素敵な響きの言葉ですね。
鳥獣だっけ・・・・URL がくっついていないんですけどぉ。。
フンダリケだっけ、、、、あれもいいですわぁ~。
さて、山陽公演に行ってきます!

No title

こんにちは。
大叔父は、歩兵第61連隊所属でした。
シナ事変にて、中国の湖北省にて昭和16年9月に戦死しました。
亡き大叔父のこと、もっと知りたいですが、もう知る人は誰も存命ではありません・・・。

原田 さん へ

お返事をありがとうございます。

61聯隊、歴史のある聯隊ですね。
添付しましたが、少し検索してすぐに出たページです。
http://www.geocities.jp/bane2161/hohei61rentai.htm
和歌山護国神社の慰霊碑のところにある実際に使用されていた
酒保の円卓子。あれ、大叔父様の61聯隊のものだったのですね。
私、あの円卓子に何度もお世話になっております。

「何十年か前、この椅子やテーブルで当時の若者達が故郷を思い
ながら、いろいろな話をしたんだろうなぁ。私の大叔父ではないけど、
きっと、誰かの肉親がこの石でできた円卓をさわっていたんだろうな」

そんなことに思いを馳せながら、尋ねるたびに
腰かけさせてもらっていました。
次回から、またさらに愛着をもって、腰掛けさせてもらいます。
大叔父様が実際に使用されたかもしれない円卓がもどってきて
よかったですね。厚生労働省や靖国神社の偕行文庫などにも
61聯隊の記録が、きっとあると思います。
そして、誰かが手記を書いているかも。
私の大叔父探しも、そんなところから始まりましたから。
昭和16年9月ということで、記録は比較的沢山あるのでは、
と想像します。私の大叔父は昭和14年出征で、昭和16年12月までは、
南支方面にいたようです。同じ時期に同じ大陸にいたことになりますね。

No title

それでは、いつガダルカナルへいかれたのですか。昭和十八年?

かささぎの旗 さん へ

歩兵230聯隊は、昭和14年にできた比較的新しい聯隊です。
昭和16年12月の開戦と同時に、香港~ジャワなど。
ずっと南方の戦線です。で、昭和17年の10月にガダルカナルへ
行ったわけです。そこで、聯隊の90%くらいを失いました。
その中に大叔父もいたわけです。でも、230聯隊自身は、
少なくなってもそのまま、終戦まで最前線で戦い続けました。
http://www.geocities.jp/bane2161/hohei230rentai.html

昭和15年頃までの戦場からの手紙は数通、残っています。

どういうふうに隊は組まれたのでしょうね。

利華さん。
私は慰霊祭へずっと祖母や母の代理で詣でていたのですが、あるとき、記念誌をいただきました。それを読んでいたら、八女市の集落ごとに派遣された国がちがっている。八女の上妻にはガダルカナル派遣組が多かった。が、あるとき山国町史(これは大分県にあった旧町名、連句で縁があり一冊いただいてた)をみていると、ここにはガダルカナルへ派遣された兵士は皆無でした。
希望を募るようなのんびりした時代ではなし、なにか強制的なちからが働いていたのでしょうね。

ん~~~

最初に玉砕した一木支隊は、旭川出身の方が多かったとか、、、
ちょっと、詳しいこと、今、わかんないですが、230聯隊は東海地区出身者と
香港攻略後、合流した関西の部隊で後半は成り立って
いたりしたので、ガダルカナルに派遣されたのはいろいろな
県の出身者がいらっしゃったと思います。
ガ島に限らず、戦闘するうちに、いろいろな部隊が合併をくりかえして
いるようですから。
また、東京から戻って、調べてみますね。

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海戦や

りかさん
お久しぶりです。お元気でしょうか。

俳句誌『円錐』(糸大八・橋本七尾子・山田耕司編集、澤好摩 発行  2011四月末刊)を読んでおりましたら、つぎのような句が目に留まりました。

 海戦や一名減の炊事班  三輪たけし

この方の句、四句とも全部抜書きしますと、

右舷砲撃ち方始め蝶は待て
青嵐や沈め沈めと濤の声
海戦や一名減の炊事班
誰も見てゐないので苺洗はず食ふ

いろんな戦記を読みましたが、どんなに飢えたときでも、厨房にはたべものがあったというのが、ふしぎです。ところによってはあまってさえいて、犬にたべさせてたり(橋爪一郎従軍記)。兵はうえていたのに。

先日野外で竜笛演奏を聞く機会に恵まれました。とってもきれいな音でした。
早朝でしたが、もともとは夕刻に演奏したとおっしゃった。解説をなさりながら吹かれたのですが、・・メモをとっておればよかった。
聴衆は三人だけだったのですが、あたりの彼岸花も大樟も椿の樹も、じいっと耳を傾けているような気がしました。
りかさんが慰霊祭でバイオリンを弾かれたときも、きっとそんなかんじだったでしょうね。

では、どうぞお元気でつつがなくお過ごしください。

かささぎの旗ひめの さん へ

こちらこそ、ご無沙汰しております。
しかしながら、心の中では、ときおり、どうされてるかなって思っていたりするんですよ。
私の方は、相変わらずですが、今年はお盆のときに狙っての静岡県護国神社に参拝できました。
なかなか、ブログに向かい時間も取れず、ずっと慌ててのアップばかりです。
では、また!!ね!!(^。^)
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