豊後水道の日の出

幾度と無く大叔父も行き来した豊後水道を「にっぽん丸」に乗って通過してきた。一週間前は天候不順で海も荒れていたのに、この旅の3日間はとても穏やかな波に恵まれ、玄界灘も太平洋も慣れた人曰く「凪みたいなものです」。瀬戸内海にいたっては湖みたいに穏やか。
以前、故介中俊輔の姉で今年89歳になる大伯母を車椅子で靖国に連れて行ったときも富士山が今まで見たことがないくらい綺麗に見えた。大伯母が「俊ちゃんが喜んでるわ」って独り言を言ったのが強く印象に残っている。そういえば、呉海軍墓地にお参りに行くときも、突然の雪のため道路が危ぶまれたのに、私達が移動するときには晴れて道路も安全だったり、英霊にご挨拶するときは今まで全部、天候に恵まれた。もしくは何とか、持ちこたえさせてくれた。きっと、大叔父達が会いたがってくれたのだろう、と思うことにした。

日の出前の白んだ豊後水道で、南溟に向かって大叔父達の写真を出して「君が代」を歌い、ありがとうございました、と合掌。そのあと、四国側から綺麗なオレンジ色の旭を拝んだ。思わず、「日本の旭やで、おいちゃん(おじちゃんの関西弁)」と靖国と同じ写真の二人に見せる。「親父さんは生きてるけど、ついでに見せたげるわ」と予科練の飛行服姿の父(当時16歳)の写真も。
そして、船尾に回って永井先生がミッドウェー戦で初陣したとき、「鈴谷」からいつまでも見ていたという豊後水道の景色を旅立つ者の気分を想像しながら眺めた。にっぽん丸の船尾には、日の丸がはためいていた。

「君が代」を選んだのは、以前「鈴谷」の姉妹艦「熊野」の生存者である左近充氏が記録した「熊野の最後」の一節に「船底に閉じこめられ行き場を失い、浸水が進み天井と頭の距離もどんどん近づく中、みんなで輪になり手を取り合って「君が代」を歌った」(要約)という奇跡的に生還した兵士の証言があったからだ。だからこそ、現代人のためではなく、彼らのために歌った。
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コメント

歴史の勉強……

「プライベート」に分類してあるので、コメントを書いても良いものか悩んだのですが、ちょっとご報告を.


麻場さんのブログを読んで、少しお勉強しました.

・「重巡洋艦 鈴谷」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E8%B0%B7 _(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

・「レイテ沖海戦」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6

「栗田艦隊の謎の反転」の話はなんとなく記憶にあったのですが、レイテ湾への突入を止めた話でしたね.


先日、「世界ウルルン滞在記」でドイツの国際平和村が出ていました.
戦争で傷ついた子供たちを保護して、治療して、祖国に帰しているボランティア団体.

人を傷付けることを商売にしている人間(末端の兵士たちのことではない)もいるし、人を救うために働いている人がいる.
戦争のない世界を作るのが、どうして難しいんでしょうねぇ.

ヤン さん へ

カテゴリーが「プライベート」とすると、あ、、そうなんだぁ。それは、お気遣いしてもらってすみませんでした。私の本業ではないジャンル、という意味で、カテゴリーのドアは開けていたつもりでした。何か良いネーミングがあれば、アイデアくださいまし。

私は、最近、あの大叔父達のことを思うと現代の自分たちは何と甘いのだろうと感じるのです。良い時代に生まれ、育ててもらったとも思います。彼らは、生きたくても待ち受ける死の方向へ自分で進まないといけなかった。自分の力でセーフティゾーンに逃げ込むことは、仲間を死に追いやることにもなる。大叔父達は、いずれも「戦争が終わったら・・・」と帰還してからの夢を持っていたようです。それが、二人とも25歳で終わってしましった。
現代の私達はこの恵まれた環境の中、自分から死を選ぶ前に「生きたくても生きることができなかった人の事」「あんな酷い環境の中、生死の戦いをしていた人」の事を考えると何か結論が変わってくるのでは、と感じるときがあります。おとぎ話ではないけど、命の交渉人みたいなのがいたら、「その命、僕のください」って南溟の彼らは思うかも。

戦争は絶対してはならない、ってことは世界中の誰でもが思っていること。なのに、こればっかりは、人間の歴史につきまとっている問題だから、私程度の頭ではどうしようもないです。だけど、彼らの犠牲のうえに今の私達の生活がある、ことだけは確かだから、彼らのことを忘れたくないのです。
っていうか、私は直接、本人を知っているわけではないけど、このまま、この世に存在しなかったかのような扱いでは、あんまりだと思って・・・。

鈴谷のことなど、お勉強してくださり、ありがとうございます。海の底で自分たちの存在を知って貰えて、彼らも喜んでいると思います。

カテゴリー名

ちと考えてみたのですが…

「自由時間」ってのはどうでしょう。

これで行きます!
アイデア募集しておきながら失礼しましたm(_ _)m

カテゴリー

ま、深く考えなくて良いなら、これからもどんどんコメント(落書き ??)を書き込みますよ (^^)(^^)

生きたくても生きられない世界というのは、考えたくないですね.
自分が無理にも生き延びようと思ったら、仲間や家族が死ぬかもしれない.
だから、死にに行かねばならない.……進むことも戻ることもできない世の中です.
現代の若者の自殺は哀しいですね.

世界を主導している連中は、自分が殺し合いの最前線に出ることがありえないから、手段としての「戦争」を選択するのに躊躇はないでしょう.
気にするとしたら「次の選挙で勝つためにはどうしたら良いか?」という部分.
やってられない感じがあります.
過去の多くの人間の犠牲を、忘れている.


最後に、最近偶然見つけたブログにこんなフレーズが書いてありました.

「亡くなった人が甦るのは この世の人間が その人のことを思い出しているときだ」
そう 教わったことがあります

なるほど

「亡くなった人が甦るのは この世の人間が その人のことを思い出しているときだ」

なるほどねぇ。私の場合、写真の中とかろうじて存命している大叔父達のそれぞれの関係者から遠い昔話として聞いているだけなんですが、2年ほど前から気になって仕方がないんです。二人とも、二十歳になって徴兵でそれぞれ、陸海軍に入ったきり。彼らはちょうどそんな時代に生を受けてしまったんでしょうね。それでも海軍の大叔父は、何度か呉港にもどっていたりしたようですが、陸軍の大叔父は昭和14年に入営して昭和17年に戦死するまで日本の土は踏めなかったようです。(厳密には未だに踏んでいない。)
よく、彼らの最期のシーンを考えるんです。っていうか想像してしまうんです。最初の頃は、どんなに痛かっただろうな、苦しかっただろうなって想像していたのですが、永井先生の本「死ぬときは苦しくない」や俳優の宝田明さんがNHKの朝の番組で言っておられたことを参考にすると、もしかしたら、最期の瞬間は結構、本人に痛みや苦しみは無かったかもって考えるようにもなりました。辛かったのは最期の瞬間よりも、それまでの時間かもしれない。

この話をし出すとなが~~くなるので、今日はこの辺にしますね。

訂正m(_ _)m

大叔父達が徴兵で出征したのは二十歳だったかどうか、疑問。なので、前記の「二十歳で徴兵」という発言は撤回いたします。訂正としては二十歳を過ぎて、です。すみませんm(_ _)m
実際、いくつで出征したんだろう。「除隊したら独立して・・・略・・・しかし、今は日本の兵隊になったからには・・・」などのような、その頃の心境を語った手紙が出てきました。
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