ガダルカナル島 と レイテ島サマール沖 

母方の大叔父(陸軍 第230聯隊)
  昭和17年11月6日 25歳の誕生日直前で戦死
         (ソロモン諸島 ガダルカナル島コリ河上流約1㎞)
父方の大叔父(海軍 重巡洋艦「鈴谷」)
  昭和19年10月25日 25歳で戦死(フィリピン レイテ島サマール沖)

この事実は、子供の頃から知っていた。予科練だった父の影響もあり、姉と二人姉妹の子供部屋には零戦の写真や大叔父が乗艦していた重巡洋艦 鈴谷の写真も貼ってあった。でも、振り返れば子供の頃から当たり前に側にあったにもかかわらず、大叔父達のことに思いをはせることって、あまりなかった。
この数年、急に彼らを身近に感じる出来事が何かに仕掛けられたかのように起こり、私は大叔父達のことについて無性に知りたい気持ちになった。
その出来事の中に、二人のお医者様との出会いがある。別々のご縁ではあるが、元陸軍軍医の林寧豊先生と元海軍軍医の永井友二郎先生。お二人とも、高齢でもなお、現役のお医者様であり、亡き戦友の分まで命の限りをつくし地域密着型の医療で貢献されている。

陸軍の林先生はガダルカナルで戦死した大叔父の部隊と同じ中国大陸にいらしたこともあり、沢山の戦闘に参加され、大叔父の部隊の動向もよくご存知だった。海軍の永井先生は大叔父がずっと乗艦していた鈴谷でミッドウェーに初陣された方、しかも、ガダルカナル島撤収作戦にも参加された。
数々の実戦を体験し奇跡的に生還された二人の軍医殿と戦後生まれの私とのお付き合いのお話は、追々アップしていきたいと思う。とにかく、二人の大叔父の最期についての情報は上記のように、戦死した場所と日時のみ。あとは、書物で関連のものを見るしかなかったのに、彼らと時空をともにしたことがある人の生の声に接する機会を得たなんて、誠に不思議というか、幸運というか。何という巡り合わせ、ありがたい!

「おじちゃん、軍医さんが来てくださったよ」
(大叔父だけど、二人とも若いから、おじちゃん としておこう)
そう心で呼びかけながら、二人の軍医殿からの手紙を大叔父達の写真に重ねてファイルしている。
なぜなら、永井友二郎先生の著書の一節にこうあったから。

「軍医が乗っているというだけで安心される。」

いくら軍医殿でも手の施しようが無い状況が、戦場では多々ある。それでも、「軍医が側にいる」という事実だけでも兵士達の気持ちは違ったという。考えてみれば、それもそうだ。きっと、大叔父達も最期を迎える瞬間、軍医殿が側にいらしたら少しは安らいだことだろう。
また、同じ永井先生の著書のあとがきにはこうあった。

「自分はこう戦って死んでいったのだ…略…この情景を家族たちに見てもらいたい」
「自分は立派に死んでいくが、この情景をなんとか父母や弟に見せたい」

第三次ソロモン海戦で駆逐艦「朝雲」の甲板で、また、攻撃を受けている潜水艦伊175号の中で…激しい戦闘のたびにそう思ったそうだ。だから、私が大叔父達の最期の様子を知りたいと思うのは、やっぱり、自然なことで、大叔父達もきっと知って欲しいと思っただろう。彼らは、二人とも独身、直接彼らを知っている人がいなくなるとこの世に生を受けた証は何もない。だから、せめて語り伝えられる者がいる間だけでも、彼らのことを知りたい、伝えたいと思う。
スポンサーサイト
コメント

利華さん、伝わりました。

ブログの紹介ありがとうございました。
なぜ、あなたが、まださほど年端もいかないのに、ここまでの情熱を傾けて、伯父様たち戦死者の霊をとむらうのか、すこしだけ、わかったような気がしました。この文章をよんで。

Lady Himeno 様 へ

端から見ていると、なんだか、取り憑かれているみたいにも見えるかもしれませんね。一番のきっかけは、ガダルカナルで亡くなった大叔父が、入営する直前に私の祖父(つまり、彼にとっては兄)に出した手紙、戦地からもいくつか届いています。インクが生々しくてその向こうに書いた人を感じる手紙でしたが、彼はその中で
「一端、皇軍の一員となったからには、一生懸命お役目に励みますが、戦争が終わって戻ってきたら・・・」と将来の夢も書いていました。そして、どの手紙にも「これが最後になるかもしれません。もしかのときは、靖国でお会いします。」とありました。
肉筆の手紙、そのあとの軍医さんとの出会い、、、、
大叔父たちが「そろそろ、こっち見て」と言っているのでしょうか。
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する