和歌山の護国神社での慰霊祭

帰省Uターン渋滞の具合がよくわからなかったので、明け方、家を出たら午前8時には和歌山城内にある護国神社に到着してしまった!朝の神社は気持ちよいので、さきに慰霊碑巡りをして、記念撮影など・・・

歩兵230聯隊の「魂」の碑に刻まれている行軍歴には、呉海軍墓地の「鈴谷の碑」に刻まれている行動表と重なる部分があり、我が家の軌跡を見る思いがしました。そして、となりにある碑が何と「ああ、予科練」の碑!桜に錨、それに翼が広がったマークが石に刻まれてました。慰霊祭の神官さんの中に、ここの予科練出身者の宮司さん(特殊潜航艇「海龍」の訓練中に山口県で終戦を迎えたそうです。)がいらっしゃって親父と話がはずんでいました。

さて、歩兵230聯隊関西戦友会の会長さんはデイケアサービスを受ける都合で慰霊祭に参加できず、私のことを神社に伝えておられたようで、前の方へ着席を促されました。私たち親娘は、初めてだしビジターのつもりで外野席で見守るだけの参加のつもりだったので、おとなしく隅っこに座ったのですが、各戦友会の代表の玉串奉納が順番に案内されたとき「歩兵230聯隊」は私達が立たなければ誰もいないということに気づき、前の遺族席へと促されたわけがやっと理解できた脳天気親娘。謹んで代表代行させていただきました。だいたい7割の戦友会は名前を呼んでも、出る方はおられませんでした。高齢化がすすみ、後を引き受ける人が少ない現実を見たようでした。

歩兵230聯隊は、本拠地は静岡県など東海地区出身者が多く、静岡の護国神社に行けば、もう少し詳しく大叔父のことがわかるような気がして、気がはやるのですが、和歌山の戦友会の方々が静岡へも出向かれ、碑の中には、静岡出身者の名簿も納められているということでした。なのに、なぜか大叔父の名前が見つからない・・・ん〜〜!?!?!靖国からの情報にはしっかり、230聯隊とあるので間違いないはずなのですが。。。

地元の議員さん方も参加されていましたが、一番声がしっかり腹から出て、内容を気合いとともに伝えたスピーチは80歳はとっくに越えられたと思う、元軍人さんのスピーチでした。
「終戦のころ、日露戦争の話を出された時『そんな大昔の話をするのは、止めてくれ』なんて言っていたのに、思い返すと昭和20年現在で日露戦争は40年昔の話。あのとき、あんなことを言った私が今、62年前の話をしようとしています」なんてしゃれっ気充分な中に、平和を祈念し国難に殉じられた仲間を慰霊する気持ち溢れた温かい心のこもったものでした。

宮司さんが祝詞っていうんでしょうか、、慰霊の言葉を独特の調子で語られる中に「南方の海で、また北の極寒の地で…」と世界中にまだ散らばっている英霊の遺骨に向けて語りかけて労をねぎらいながらの慰霊の言葉に涙が出ました。

右翼とおぼしき宣伝カーの音がちょうど慰霊祭が始まった10時頃、護国神社の前で大音量を出していて、しかも、大量発生の蝉もかなり大音量だったので、司会進行の神官さんの声がほとんど飛ばされてしまっていて私の耳にはたいへん聞き取りづらかったのですが、何故か私よりご高齢の方々はしっかり司会進行に沿って動いておられたのに驚愕!何故に聞こえる?

慰霊祭は午前中に終わり、昼食後、いよいよ、会長さん宅へ・・。この続きは、また。

蝶になって帰ってくる・・・

8月12日(日)放送のNHKスペシャルを見た。ゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげる自身の戦争体験を題材にしたドラマ。
ドラマの中で、亡き戦友が生還し社会的に成功している水木しげるにメッセージを伝えるために、不思議な蝶になって現れるシーンがあった。
彼らの戦地はラバウル。南方である。だから、不思議な蝶は、いかにも熱帯の生き物のように鮮やかな色合いで登場した。

ガダルカナルで戦死した大叔父の話が私の脳裏に重なった。
大叔父は11月に戦死したが、家族は、翌年まで知らなかった。が、大叔父が戦死したころ、不思議な出来事があったらしい。11月なのに、見たことがないような鮮やかな色をした蛾(当時の婆ちゃんは蛾と言ったらしい)が、追い払っても追い払っても家から離れようとしなかったって。婆ちゃんが「雅佳が死んだかもしれない」ってポツンと。

昨日のドラマでも、雪がちらつく中、あざやかな色をした蝶が水木しげるを誘う。そして、戦死者からのメッセージを受ける。

やっぱり、昭和17年の11月にやってきた蛾は大叔父だったのかも。

ところで、私は蛾と蝶が大の苦手である。見た途端に声も出ないし、こちらから退散する始末である。いくら大叔父でも、蛾や蝶に姿を変えては出てきて欲しくないなぁ。せめて、爬虫類にして!可愛がってあげるから。。。でも、大叔父だと思ったら、蛾でも我慢できるのかなぁ・・・
うわ、あんまり考えたくない!

我が家の守護神?

先日、靖国の「みたままつり」の提灯の写真をさくらさんが撮影して、このブログに公開してくださった。今年、はじめて大叔父達へのメッセージとして私の名前で献灯したのだけど、実際には、行けずにがっかりしていたら、ちゃんと私のために見せてくださった。本当に感謝の気持ちでいっぱい。

このブログのデザインを青い海と白いヒトデにしたのには、大叔父二人のことも思ったから。っていうかぁ白状すると。。。
白いのは、お星様だと早合点した!!周囲からは、「どうみてもヒトデだろが(▼▼メ)」って言われたけど・・・
私には、どうみても「白いお星様」に見えた、とほほ。
でも、ヒトデって海星って書く?んじゃ、スターフィッシュですよね?
だったら、我がアストロリコも「美しい天体」という意味だし、南溟の大叔父達は、お星様になったんだし。陸軍は★マークだし、海軍の海もあるし、、、だから、完璧ってこと!ヤッター\(^^@)/

最近、ブエノスアイレスにいる姪が「おじちゃん達に守られてるとしか思いようがないわ」としみじみ発言。そういえば、二人の姪は長い間、実家を離れ外国で日夜果敢に努力を続けているが、思いもよらない事件もあるのに、振り返ると天佑神助のごとく、今日まで無事に成長してきた。先日は、70代後半、80歳を目前にした両親が二人だけでイギリスの姪に会いに行ったときも、まるで、天から神様が助けの駒をおいたかのように、困ったときに親切な方に助けられながら無事に帰国した。

姪いわく「おじちゃん達がいてくれたから、私達が今日ここに居る。あのおじちゃん達は、家族を守るために戦死された。だから、亡くなってからも守り続けてくれているのは、不思議なことじゃない。彼らの守ろうとする気持ちは、ずっと続いているんだ。」

自分の子供ではなけど、負うた子に教えられた・・・

写真は大叔父、陸軍歩兵230聯隊 麻場雅佳 軍曹


大日本帝国海軍 二等兵曹 介中俊輔(6/22追記更新)

久々の自由時間課題発表!
まずは、鈴谷に乗艦していた海軍の大叔父「介中俊輔」の写真が、長い間行方不明扱いでしたが、この度、突然、存在をアピールしてきて、俊輔の甥っ子にあたる私の親父(例の腕白&元予科練の親父)が発見!親父は、予科練に入る時、父親からこの写真を持たされたそうで、軍隊にいる間中、ずっと持っていたそうです。その現物と再会。しかし、この60年余りの間に、大きく縦皺が入り、そのシワは俊輔の顔の真ん中を通過していました。が、最近はすごいですね。昔の写真を蘇らせることができるんだぁ。ということで、この写真が修復後のもの。
呉の海兵団で新兵訓練後のスタジオ写真みたいです。

介中俊輔



おいちゃん、よかったね。きれいにしてもらって。。。。
どこにシワがあったのか、さっぱり、わかんなくなってる!

呉の友人が教えてくれた下記↓のページ。
これは、知る人ぞ知る、有名な方のお話。
ミッドウェーの時は鈴谷の艦長だったので、その時の鈴谷の動きの中においちゃんもいたんだぁって思うと、立派な艦長の下でお役目が果たせて私としても嬉しい一コマ。

http://navy75.web.infoseek.co.jp/kaisouroku/kaiso-28.html


その呉の友人が、陸軍の大叔父が所属した部隊の手がかり情報を提供してくれました。その発表会はまた後日。
陸軍の方は、ほぼ諦めかけていましたが、ちゃんと戦友会が慰霊の碑を作ってくれていました。さすが!っていうか、今まで遺族が無頓着でごめんなさい。

豊後水道の日の出

幾度と無く大叔父も行き来した豊後水道を「にっぽん丸」に乗って通過してきた。一週間前は天候不順で海も荒れていたのに、この旅の3日間はとても穏やかな波に恵まれ、玄界灘も太平洋も慣れた人曰く「凪みたいなものです」。瀬戸内海にいたっては湖みたいに穏やか。
以前、故介中俊輔の姉で今年89歳になる大伯母を車椅子で靖国に連れて行ったときも富士山が今まで見たことがないくらい綺麗に見えた。大伯母が「俊ちゃんが喜んでるわ」って独り言を言ったのが強く印象に残っている。そういえば、呉海軍墓地にお参りに行くときも、突然の雪のため道路が危ぶまれたのに、私達が移動するときには晴れて道路も安全だったり、英霊にご挨拶するときは今まで全部、天候に恵まれた。もしくは何とか、持ちこたえさせてくれた。きっと、大叔父達が会いたがってくれたのだろう、と思うことにした。

日の出前の白んだ豊後水道で、南溟に向かって大叔父達の写真を出して「君が代」を歌い、ありがとうございました、と合掌。そのあと、四国側から綺麗なオレンジ色の旭を拝んだ。思わず、「日本の旭やで、おいちゃん(おじちゃんの関西弁)」と靖国と同じ写真の二人に見せる。「親父さんは生きてるけど、ついでに見せたげるわ」と予科練の飛行服姿の父(当時16歳)の写真も。
そして、船尾に回って永井先生がミッドウェー戦で初陣したとき、「鈴谷」からいつまでも見ていたという豊後水道の景色を旅立つ者の気分を想像しながら眺めた。にっぽん丸の船尾には、日の丸がはためいていた。

「君が代」を選んだのは、以前「鈴谷」の姉妹艦「熊野」の生存者である左近充氏が記録した「熊野の最後」の一節に「船底に閉じこめられ行き場を失い、浸水が進み天井と頭の距離もどんどん近づく中、みんなで輪になり手を取り合って「君が代」を歌った」(要約)という奇跡的に生還した兵士の証言があったからだ。だからこそ、現代人のためではなく、彼らのために歌った。
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